これは韓国にいる時から、

日本に帰ったら絶対読もうと思っていました。

かといって、私は村上春樹のファンではありません。

むしろ、若い時は苦手意識がありました。

村上ワールドがよく理解できなくて・・・。

でも今なら分かるかもしれない、

今読んだらきっと違うんじゃないかなって気がすごくして、

帰国後すぐ、本屋さんに行って、まず「Book1」から購入。

 

単行本ではないので、1800円とニートの私にしては痛い金額ですが、

本から学ぶことは多いので、お金は惜しみません。

図書館で借りようと思ったら、10000人くらい予約待ちがいました。

もう発売してだいぶ経つというのに・・・。

 

韓国でもすでに翻訳されて発売されているので、

韓国人の人もかなり読んでいると思います。

今、村上春樹さんは来年2010年初夏頃の発売に向けて、

「1Q84」のBOOK3を執筆中です。

 

【感想はこちら(Read More)・・・

ネタバレですので、読んでない人は注意!!】

ここからは、あらすじと感想になりますが私の勝手な感想と、

感想を書く上ではストーリーも一緒に書いていかなければいけませんので、

ネタばれしてます。

読みたくない人はここまでにしてくださいね~。

——————————————————————————–

まず全体的な感想ですが、

村上春樹の小説の割にほんとに「読みやすかった」です。

もちろん村上春樹さんが好きで、

作品を何冊も読んでいる人にとっては、

「他の作品も読みやすいよ」という人も多いかもしれませんが、

私は今までの作品は最初の10ページくらいで、ギブアップしてしまうほうでした。

 

今回の作品は、文章が初めて3人称で描かれているということですから、

そこが読みやすさのひとつに繋がっているのかもしれません。

 

ただ独特な世界観が漂っているのは変わりませんので、

いくら想像力を膨らませても、理解できない、

意味が分からない登場人物や背景もありました。

 

次に私が1Q84を読んで

まず思い浮かんだキーワードは、「2」でした。単純ですみません

ではどういうところで、

このキーワードを感じたかというところを、

分けて書いていきたいと思います。

 

①まず「青豆」と「天吾」という

2人の登場人物の物語が交互に進んでいく。

 

この手法は「海辺のカフカ」などと同じ手法だそうですが、

最初は全然関連のないような二人の物語が、交互に語られていきます。

マーシャルアーツを教えているスポーツインストラクターであり、

プロの殺し屋である「青豆」と、

人気数学教師であるかたわら小説を描いている「天吾」の2人の物語。

2人は一見全然接点がないように思えますが、

読み進めているうちに、

だんだん二人が小学校時代は同じクラスにいたということが分かります。

お互い、両親に避けられない運命に苦しみながらもさからうことができず、

他人とは違った孤独な人生の境遇を歩んできたことが分かります。

2人はお互い淡い想いを寄せていましたが、

結局想いを打ち明けないまま別れてしまいます。

 

そして大人になり、2人は違った方向から、

あるひとつの重大な事件に絡んでいきます。

全然関連性がない2人の生活が読み進めていくうちに、

共通性があることが明らかになり、事件に絡んでいくうちに

2人の距離も近づいていくように描かれている設定は

読み手をぐいぐい引きつけてくれます。

ここらへんはさすが村上春樹だなという感じです。

 

②この物語の中では「1984年」という世界と

「1Q84年」という2つの世界が存在している。

 

この「1984年」というのは、

私達が生きている現実世界をあらわしています。

では「1Q84年」は何を意味しているのか。

結局は、この世界も私達人間が作り出したもう一つの世界なのだと思います。

ただし、その世界は歪んだ汚い世界。

利益や欲に目がくらんだ人間が、間違いを間違いだと気づかずに築いてきた社会。

その社会は今間違いだと気づいても、

もう変えること・戻ることはできないことを示唆しているのかな。

そして、一人一人の運命も自分で決めた運命の道は引き返すことができない、

後で失敗だったよ、後悔したよと思っても

戻すことはできないんだと言いたいんじゃないかと思います。

だから最後、青豆が「1Q84」の時代に入ってしまった

高速道路のドアまで行って戻ろうとしたけど、扉はもうふさがっていた。

最初にタクシーの運転手が言った「現実というのは常にひとりきりだ」という言葉も

一度入ってしまったら、もう後には引き返せないという意味だと思います。

この「宿命」とか「変えられない運命」というものを感じさせる

登場人物の言葉がいくつかあります。

たとえば、青豆がマーシャルアーツを教えていたケアハウスの老婦人の言葉。

「歴史の本が教えてくれるのは、

私達は今も昔も基本的に同じだという事実です。

服装や生活様式にいくらかの違いはあっても、

私達が考えることややっていることに、それほど変わりはありません。

人間というものは結局のところ、

遺伝子にとってただの乗り物(キャリア)であり、

通り道にすぎないのです。」

これを読むと、人間というのは個人差はあるものの、

生まれたときから大きな差はなく、

基本的に敷かれたレールの上を歩いていってる、

前向きじゃないというか自分ではどうしようもない、

変えられない運命があるんじゃないかという気がします。

 

また、青豆の言葉。

「彼女に分かっているのは、

今となってはもう他に人生の選びようがないということくらいだ。

何はともあれ、私はこの人生を生きていくしかない。

返品して新しいものに取りかえるわけにもいかない。

それがどんなに奇妙なことであれ、いびつなものであれ、

それが私の乗り物(キャリア)のあり方なのだ。」

 

これはもし間違った道に進んでいたとしても、

変えることはもうできないんだよ、

だから後悔しないように生きなきゃいけない、

間違っても後悔してはいけないというメッセージなのかと思いました。

 

③パシヴァ(知覚するもの)」と

「レシヴァ(受け入れるもの)」の2つの存在。

 

この小説で「オウム心理教」を彷彿させるストーリーが描かれていることは、

読む前から聞いていたんですが、

宗教法人「さきがけ」がまさに「オウム真理教」を象徴しています。

また、青豆の両親が入っていた「証人会」は

「エホバの証人」を象徴していることはすぐ分かりました。

Book2では、この「さきがけ」の教祖の描写が

かなり細かく丁寧に描かれています。

オウム真理教 麻原とは少し違いますが、かなり似ていると思います。

ただ村上春樹さんは、教祖というものは悪でもあるが、

その一方では被害者でもあるということも描いています。

「リトルピープル」によって支配され、

蝕まれてしまったと体はもう元に戻ることはありません。

ここでも教祖事態、自分が作った宗教団体が思ってもいない方向に進んでしまい、

間違いに気付きますが、もとに戻すことはできないところまで来ていました。

 

この物語は変えたくても変えられない運命、

間違った世界のなかで歯痒さを感じながら

行動に移せない人々の葛藤などが描かれていると思います。

ただ「リトルピープル」が何か、

「空気さなぎ」が何を意味するのかはまだ私にはわかりません。

 

ただ一見犯罪者と思える人でも、

犯罪者を生み出してしまった社会のシステムの在り方や

世界の歪みなどを考えていかなけばならないんじゃないかと思います。

 

④青豆と天吾がいる世界「1Q84」の月は2つに分かれている。

 

これは結局②と同じように、

世界が2つに分かれているということを象徴するためのものですが、

この月が出てくるあたりは、想像力を喚起させてくれるロマンティックな情景ですね。

そして、「純愛」を感じさせてくれます。

最後、お互いを探している「青豆」と「天吾」は、

近い場所にいながらも会うことができない。

天吾が公園のすべり台の上で月が

2つになっているのを見ているところを、

青豆が部屋から発見してなりふりかまわず外に出るが、

もうその時には「天吾」は消えていた。

 

その余韻にひたり、青豆もすべり台から月を見る。

 

情景設定がすごく細かいので、

文章だけでもかなり想像力を膨らませることができます。

それまで、「青豆」と「天吾」はお互いのことを想っていながらも、

お互いを探そうとはしません。

ただ一人では寂しくて生きられないので、

時々は適当な相手を見つけては寂しさを紛らわせようとする・・・

 

最後は、これまでみんなが諦めてきた変えられない運命を

「天吾」が変えようとします。

この「天吾」にスポットが当たっているというか、

何かを変えていける力を持つ陽の存在になるのかと思いましたが、

Book3では果してどうなるでしょうか・・・

 

文章構成が恐ろしく上手いのもありますが、

個人的には「ふかえり」の存在と、ふかえりの話し方にハマってしまいました。

 
このふかえりの会話は、絶対日本語で読んだほうがいいと思います。

「ひらがな」「カタカナ」「漢字」の役割を上手く使い分けている。

「ふかえり」は読字障害なので、

難しいことをいったり、文をまとめて話すことができない。

話すときは、いつも短文で疑問符なしで話す。抑揚もない。

ふかえりが話す文には、丁寧体でなく、普通体で描かれているにも関わらず、

「?」マークがいっさいつけられていません。

また、ふかえりが聞いて難しいことや、

分かりにくいことはカタカナで表示されています。

だから文字で読んでいるだけなのに、

ふかえりの個性やキャラクターがそのまま伝わってくるのです。
このあたりは、ちょっと日本語教師の視点から読んでみましたが、

「カタカナ」「漢字」というのは外国人に教える時には非常にわずらわしいもんです。

ただ、やっぱりこういう文章を読んでみると「漢字」や「カタカナ」というのは、

生き生きとした文章表現にもかなりいい効果を生み出すんですね。

ハングルだったら、ふかえりのキャラクターは絶対100%表現できないだろうなぁ。

 

来年夏のBook3がどういう展開になっていくか楽しみです。

私は普通、本は読み始めたら1週間もかからずに読みますが、

この小説は2冊で1ヶ月かけて読みました。

日本語教師になってから、今までよりかなり時間をかけて

細かく見るようになりましたが、これは時間かかりましたね。

 

また今時間がある時に

他の村上春樹小説にもチャレンジしてみたいと思います。

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